<The memory of his>
一つしかない窓から日光が差し込み、石畳の床に模様を描く。
しめっぽいこの辺りではおそらく一番まともな場所なのだろうけれども。
淡い色の髪を頬に流して、子供は虚ろな目を空に彷徨わせる。
痛々しいほどに白い腕には赤い引っかき傷が走り、四肢はだらんと投げ出されていた。
冷たさや空腹や痛みや。
悲しみや寂しさや。
そんなものは全て感じない。
「…………」
からからに乾いた口が開くが、音を発する事はない。
呼ぶ名前なんて、ほとんど知らない。
それに呼んだところで、来るはずもなくて。
あまりに呼ばれる事がないから、下手をすると自分の名まで忘れてしまう。
明るくなって暗くなって、そんなことの繰り返し。
「……い」
漏れ聞いた事のある名前を呟く。
その人物は今どこで何をしているのだろうか?
「ササライ……」
意味をなさないはずの音の羅列でも、それが自分とどこか近しい存在である事は知っている。
「そら……」
虚ろな目で見上げるそれは青くて、遠くて、眩しい。
強い光源は太陽と言うのだと、耳をじっとそばだてて知った。
「とり……そら……たいよう」
噛み締めるように呟いて、今度は別の名前を言う。
「ルック」
それが自分の名前なのだと、知ったのはどのくらい前だろう。
誰かに呼ばれた、幾度か呼ばれて、初めて分かった。
「ルック」
呟かないと忘れてしまう。
今度その名前を呼ばれた時には、ちゃんと返事をしなくては、と。
暗い部屋の一角が淡い光に満たされる。
凝視しているとその光は徐々に薄れ、人影が一つ出現していた。
思わぬ事態に子供は本能的に怯えを感じる。
その深い色の瞳が恐怖に瞬くと、どこからともなく風がわきおこる。
「やはり……なんて事を」
呟いた女性はすっぽりと自身を覆うフードを身に纏っていて、長い髪は床に垂れている。
数歩歩み寄ってきた相手に、無数の風の刃が繰り出されるが、全て彼女の体に到達する前に掻き消えた。
「!」
悲鳴をあげるという行為すらできないほど未発達の声帯は、掠れた声を上げるだけ。
女性は物腰柔らかに子供へと片手を差し伸べた。
「怯えないでください――私はあなたを助けに来たのです」
「たす、け?」
「そうです、ここから出たくはありませんか?」
問われた問いに、全身が脈動する。
荒ぶった感情が貫き、高揚が視界を揺らす。
「でたい!」
大きく叫んだその瞬間、彼の体から放たれた絶大なる力が、その岩牢を揺らし、崩した。
気付いたら同じような場所にいた。
あれは夢で、また同じ事かと溜息を吐き半身を起こす。
「…………」
そこは石畳ではあったが見慣れぬ場所で、子供は驚きを隠さぬまま見回す。
「起きましたか? 卵粥を持ってきました、食べなさい」
目の前に歩いてきたのはあの女性で、そっと置かれたその皿に入った物は今まで見た事がない食べ物だった。
「名前は?」
恐る恐る手を出して、一口二口と食べ出した子供に女性は問う。
「なま、え」
「そう、あなたの名前はなんと言うのです?」
「……ルック」
「そうですか、私はレックナート、今日からルックは私の弟子となってこの塔で暮らします、いいですね?」
「とう……?」
「あなたが今までいたのはハルモニア神聖国。ここは赤月帝国といって、ハルモニアとは別の国です」
「くに……」
瞑ったままの目の上の眉を寄せ、女性は小声でなにやら呟く。
「文字の読み方から教えましょう、本ならたくさんありますし」
「ほん……?」
呆然と鸚鵡返しに呟くルックの細い髪を撫でて、レックナートは微笑んだ。
「食べなさい、そして眠りなさい」
「…………」
こくりと頷いて、ゆっくりとルックは食事を再開した。
***
……こんなん、かな、なんて思うルック誘拐事件。(違
ササライはルックの事を知らないので、幼児期(?)に接触がないってのがね……。